戦型のサイクロン その2

雁木と四間飛車の2つの戦法を指し始めた私であったが、相変わらず対振り飛車には手を焼いていた。

飛車を振られて相振り飛車は難しい。かといって一段目がすっかすかの飛車に弱い雁木の陣形で振り飛車を受けることはできない。

どうしたものかと考える。

特に厄介なのは先手番で7六歩3四歩とした時に6六歩とすることが四間飛車においても雁木においても必須。しかし飛車を振られては対処ができない。本来有利なはずの先手番で、圧倒的な不利な状況に持っている戦法の選択1つで大きく有利不利に影響してしまうことを感じていた。

ではどうする?

私が活路を見出したのは対振り飛車の急戦だった。

戦法のレパートリーに対振り飛車居飛車の作戦を仕入れる。それによって、苦手な振り飛車への対抗策である一手を手に入れつつ、先手版の3手目で6六歩を捨て、雁木か対振り飛車という風に絞った。

私が最初に学んだのは山田定跡と鷺ノ宮定跡だった。

急戦系を選んだ理由はただ一つ、名前がカッコいいと思った。その他の理由はない。

私が将棋を始めた当時は穴熊が主流だったが、穴熊のことは未だに好きになれない。なんとなくだが名前がイモっぽいのだ。あと自分は危険(王手)を回避して一方的に責めるのは理に叶っているが好きではない。

ギリギリじゃないと僕、ダメなんだよ!

そんな感じの理由で指し始めた対振り飛車の急戦だった。

急戦を指し始めて、確かに感じるものが2つあった。

1つは居飛車の優位性と急戦の強さ。

もう1つは四間飛車を指すことの難しさだった。

そうして私は四間飛車を一度手放して、三間飛車を志した。

三間飛車を選んだ理由は1つ。

三間飛車相手には急戦がない。つまるところ、対持久戦のみだ。そして四間飛車と同じように雁木と指し分けることができる。今では三間飛車藤井システムという戦法でこの2つを指し分けるような作戦があるが、私はハチワンダイバーの影響でこれに似たようなことをしてしまっていた。時代の先取りである。かと言って私は三間飛車に振ってから雁木に振り直すことはなかったし、ただ雁木と三間飛車の2択で選んでいただけ。

三間飛車藤井システム三間飛車 and 雁木なのだが私が当時指していたのは三間飛車 or 雁木だったのだ。

当時の自分の中で、これならば三間飛車、これならば雁木といった戦法を指し分けるメソッドがあった。それだけだった。

そうして三間飛車と雁木、対振り急戦を指し続けていた。

そして気付いたことがあり、私は迷走の渦に飲み込まれた。

戦型のサイクロン その1

私はオールラウンダーだ。得意戦法はまだない。

オールラウンダーというものがよくわからないが、気がつくとオールラウンダーになっていた。始まりは雁木と四間飛車だったはずだが気が付けば多くの戦法を指すようになってしまっている。

いったいいつからこうなってしなったのか? 責任者に問いただしたい。責任者は何処か?

 

そんな風に言っているものの、責任者というのは常々自分だ。私が始めたことなのだからその責任は私にあるのが道理だ。

私が将棋を指すまでを、振り返りながら何故こうなったのかを考えてみることとする。

私は自分というものがまるでよくわかっていない。これは将棋の話だけではない、全てにおいて自分のことを理解できている気がしていない。おおよそのところ自分について知っていることは2、3割程度ではないかとも感じるほどだ。

受け身な人は振り飛車党、攻めたい人は居飛車党。囲いが簡単ですぐ負けないから振り飛車に、攻め筋が多彩だから居飛車に。

将棋を始めたばかりの初心者に言われがちな言葉で、将棋を完全独学で始めた私は自分のことを受け身な人間と(いまでもそうだが)思っていたのでなるべくして振り飛車のオーソドックスな形である四間飛車を学んだ。

学んだと言うには語弊がある――真似したと言うのが正しい。

私は将棋ウォーズで四間飛車の勝った方の棋譜を一通り見て、どのようにしているかを見て、何の気無しに四間飛車を学んだつもりで真似て指していた。

さして負けなかったが、壁に当たる。

その壁は当時の私にとっては大きいものに感じた。今であれば些細なものだが、非常に大きく感じた。巨人にとってトラックが道端の石ころと変わらないように、今の私にとって過去のその壁はさして大きくは見えない。しかし、私はその壁を非常に大きく感じていたのだった。

振り飛車戦法というのは往々にして受け身な戦法だ。しかし時には相手の攻めを利用して――ボクサーが相手のパンチを見切ってカウンターを打つように、攻めなくてはならない。

居飛車側には対振り飛車の作戦に急戦型というものがあり、それをまるで受け切れなかった。完全に受け身で、攻めを受け切って負けてしまうのである。全てのパンチを受けるボクサーがいないように、全ての攻めを受ける棋士はいない。全ての攻めを受けた先にあるのはただ一つ、敗北だけだ。

さらに相手は居飛車だけではなかった。振り飛車にも敵はいた、相振り飛車のことである。相手も飛車を振るため、攻め合いになる。攻め方がいまいちわかっているようでわかっていない。勝負にならない。

私は四間飛車を指してスランプに陥った。

どうすればいいのやら。

将棋を指し始めそう考えるまで、おおよそ2日のことだった。

当時学生だった私はBOOKOFFに行き、立ち読みをすることに精を出す勤勉な学生だった。ありとあらゆる漫画本を読み、小説本を読みふける。この上ない娯楽の上に金銭の消費は一切ない完璧な趣味だったと自負している。

将棋を指し始めて、壁にぶち当たった時に私はBOOKOFFには将棋本があるのではないか?と考えた。思い立ったが吉日とばかりに向かうがあるのは詰将棋本のみ、なんたることか。

漫画本が1巻だけ出ていなかったりすることがある近場のBOOKOFFだったが、常々仏のような御心でそれを良しとしていた私だった。しかしばかりこの時は憤慨した。なんたる品揃えか。拳を握ったその姿は、あまりにも滑稽な逆ギレだった。

無いものは無い。仕方ないと思って私は漫画本のコーナーに行き、将棋漫画を探した。

そこで見つけた一冊が、私に新たなる戦型を見せた。

将棋を指す人であれば多くの人が知っているであろう、私にとってはバイブルとでも言うべき熱い真剣勝負が繰り広げられる一冊――ハチワンダイバーである。

ここで1人の老人が指した戦法と、その形を見て私に電流が走った。

その老人の名は二こ神、神野神太郎。得意戦法は雁木である。

雁木という戦法は今では角換わり拒否などで指される有力も有力、棋書も多く出たプロも指す戦型である。

しかし当時は違う。棋書はせいぜい『雁木戦法』と『雁木でガンガン』ぐらい、どちらも絶版である。その上、雁木は矢倉の出来の悪い兄貴とまで評されるような貧弱な戦型だった。何ぶん棒銀に弱い、右四間飛車に弱い、角交換をされても痛い。何をされても痛いだらけの作戦だ。アマチュアでも指す人は滅多に居ない。プロでは羽生先生が採用した一局があったと記憶しているが、それも対矢倉の5三銀急戦に対しての受けの手段として出たものだった。

雁木という戦法は当時はまるで指されない、日陰どころが暗黒のベールに包まれた貧弱極まりない戦型だった。

それを先述した二こ神という老人はカッコよく指す。鬼気迫る形相で、この戦法を指していた。

学生時代の私はそれに惹かれ、セリエAのスター選手に憧れるよりも……『二こ神流雁木』に憧れるようになったのだ。

何よりこの雁木は私が初めに覚えた戦法である四間飛車に近しいところがあった。それは銀の位置だ。

銀を4三にあがる形は雁木にも四間飛車にもなり得る。これならば四間飛車と雁木をスイッチヒッターが右と左を入れ替えて打つように、指すことができる。

そうして私は雁木を指すようになった。

雁木と四間飛車、2つの戦法を指すようになることがオールラウンダーと化す一因とはこの時の私はまだ知らない。

勝負の話

初めて将棋を指そうと思った学生時代。それから時間は流れ、かれこれ6年ほど将棋をやっている計算になる。

初めて将棋を遊びではなくて、勝負として指した瞬間のことを今でも何の気なしに思い出すことがある。相手は近所のご老人だった。

その老人には多くのことを教わった。今でもその人を師匠と呼ぶことがある。

師匠には本当に多くのことを教わった。

将棋の戦型の理屈、勝負に臨む心構え、戦いで手を選ぶのに必要なもの、戦う中で考えるべきこと。

こと勝負については多くのことを学んだ気でいるが、師匠のおかげでそれ以上に大きなことを1つだけ学んだ機会がある。

それを教えてくれたのは師匠ではなかった。師匠の奥さんが、ふと言った言葉である。‪

「1番良いものを選ぼうとすることが、本当に1番良いとは限らんのよ」

そんなことを言ったのだった。

非常に悔しい負けをした日のことだった。負けた悔しさもあって家に帰ろうにも帰りたくない気持ちが勝り、師匠の家に寄った。

時刻は19時ごろ、冬の季節で外ももう暗い。

インターホンを鳴らすと師匠ではなく奥さんが出てきて「あら」と言って微笑んでいた。

「負けたん」

「わかります?」

「うちの人も負けたら似たような顔して帰ってくるからなぁ……寒いし入って入って」

何処か遠くを見るような目をしてそう言った。促されるままに家に入る。料理の支度中だったらしい奥さんはそのままキッチンに行き、自分はそのまま居間に入ってちゃぶ台の前に座った。

居間では師匠がぐでんぐでんに脱力して寝転がっていた。

しばらくして奥さんが料理を持ってくると、師匠は起きて「来たか」と目を覚ましたニタニタ笑って自分の方を見た。

「来ちゃいました」

「負けたやろ?」

「わかるんですね」

「そらな」

頬杖ついて満面の笑みを自分に向ける師匠を他所に、奥さんは3人分の料理を持ってきて座布団に座っていただきます」と言ってご飯を食べ始めた。

自分も師匠もそれに続いて「いただきます」と言ってご飯を食べ始める。

ふと師匠が「どないして負けた?」と聞いてきた。勝負をする人の目で、先ほどまでニタニタと笑っていた時とはまるで違う。

自分は箸を止めて、その一局の流れを話すと師匠はどの手が悪くて、どう指せば勝てたのかを軽く言ってまたご飯を食べ始めた。

勝てた一局だと思い知らされ、ずんと気が沈む。あの時は本当に胃の底にダンベルでも落とされたのではないかという気になった。

「それってほんまにあかんかったん?」と奥さんが言った。彼女は将棋についてまるで知らない素人同然の人で、こういったやりとりの最中に口を挟むことは滅多にしない人だった。

「悪くはないけど、良くもないな。3番手ぐらい」と師匠は言った。

「いいじゃないの、3番手」と言い出して、師匠が笑い始めた。自分もいまいち理解しきれず硬直。

それを他所に奥さんは続けた。

「将棋って1番良い手を選び続けるものちゃうでしょ。大事なのは選んだ手で、どこまでちゃんとやりきるか、なんちゃう?」

並々ならぬ含蓄を持って発せられる彼女の言葉に思わず脱帽した。師匠も師匠で黙って聞いてい肯いている。

「1番良い選択してたら、絶対にこの人と結婚せんかったからね」と奥さんは師匠を指さして笑う。

夫婦喧嘩か?と身構えていると師匠も師匠で「勢いやからなぁ……」としみじみ言った。

のちに知ったことだが、この2人が結婚したのは半ば強引に師匠が奥さんを連れて駆け落ち、帰るに帰れなくなって結婚していたらしい。

奥さんは「1番良いものが1番ちゃうんよ、2番目3番目を選んだら反則ってわけちゃうでしょ?じゃあそれでもええやん。1番良いものを選ぼうとすると、そこにばかり目がいって2番目3番目に意識が行かへんからね。2番目3番目でもいいと思うねん。それでダメってなるんやったらその姿勢があかんと思うよ」と続けた。

それから「まあ要するに」とひと間隔おいて「1番良いものを選ぼうとすることが、本当に1番良いとは限らんのよ」と言った。

当時、勝ちたいと思い道を行っていた自分にはない発想だった。2番目、3番目でも良いという考え方は盲点。最善を尽くして勝とうとする将棋を指す自分にとっては完全なる盲点だった。

あれっきり選択で失敗しても、大きな後悔をすることは無くなった。

2番目でも3番目でも、自分がそれでいいと思える選択を続けて後悔せずにやって来ている。